無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下

 論じて曰く。

これより後は、偈のいわれを解釈する一段である。この中が十章になっている。一つには願偈大意、二つには起観生信、三つには観行体相、四つには浄入願心、五つには善巧摂化、六つには離菩提障、七つには順菩提門、八つには名義摂対、九つには願事成就、十には利行満足である。

「論じて」というのは、解釈することである。その意味は、偈のわけを解釈するのである。「曰く」とは詞である。下のもろもろの文句を指す。これは、偈のいわれを解釈する詞である。ゆえに「論じて曰く」というのである。

願偈大意というのは、

この願偈は何の義をか明かす。彼の安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつり、彼の国に生ぜんと願ずることを示現する故なり。

起観生信というのは、この章の中にまた二段がある。一つには五念門の力用を示す。二つにはその五念門のものがらを出す。

五念の力用を示すとは、

云何が観じ、云何が信心を生ずる。若し善男子・善女人、五念門行を修して成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、彼の阿弥陀仏を見たてまつることを得。

五念門のものがらを出すとは、

何等か五念門なる。一つには礼拝門、二つには讃嘆門、三つには作願門、四つには観察門、五つには回向門なり。

「門」とは、出入することを意味する。人が門を得たならば、(人出無碍)入るのも出るのも自在であるがごとくである。五念門の中で前の四念は安楽浄土に入る門であり、後の一念は(出慈悲教化門)慈悲のために迷いの世界に出る門である。

云何が礼拝する。身業に阿弥陀如来・応,正遍知を礼拝したてまつる。

(諸仏如来徳有無量)諸仏如来には、無量の徳がある。(徳無量故徳号亦無量)徳が無量であるから、その徳をあらわす名もまた無量である。(若欲具談紙筆不能載)もしくわしくこれをいおうとすれば、紙筆であらわすことができない。こういうわけで、諸経にはあるいは十名を挙げ、あるいは三号を出してある。これは思うに最も主とするものを出しただけである。どうしてこれだけで尽きようか。いうところの三号とは、如来と応と正遍知とである。「如来」とは、諸法のありのままの如く心に解り、諸法のありのままの如く口に説き、諸仏が法性をさとってあらわれたもうごとく、この私もまたこのようにあらわれて、さらに迷いの中に去られない。ゆえに「如来」と名づける。「応」とは応供である。仏は(結使除尽得一切智恵)煩悩をことごとく除いて、すべてをさとった智慧を得ておられる。(応受一切天地衆生供養)あらゆる天地の衆生の供養を受けるべき方であるから「応」という。「正遍知」とは、(一切諸法実不壊相不増不減)一切の諸法は本来不壊であり、不増不減であることを悟ったのである。どういうのが不壊であるのか。(心行処滅言語道断)心で考えることができず、ことばであらわすべきすべをこえている。(諸法如涅槃相不動)諸法は、本来涅槃が不生不滅であるごとく不動である。こういうことを知るから「正遍知」と名づける。「無碍光」のいわれは、前の偈の中で解釈したとおりである。

彼の国に生ぜん意を為す故なり。

なぜこういうのかといえば、菩薩の法則は、いつも昼三度、夜三度、十方一切の諸仏を礼拝するのであるが、必ずしも願生の意があるとは限らない。今はいつも往生の意をもって阿弥陀如来を礼拝するのである。

云何が讃嘆する、口業に讃嘆したてまつる。

「讃」とはほめたたえることである。「嘆」とは、歌によってたたえることである。讃嘆は口によらねば宣ベることができない。ゆえに「口業」というのである。

彼の如来の名を称し、彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、実の如く修行し相応せんと欲う故なり。

「彼の如来の名を称し」とは、無碍光如来を信じてその名を称えることである。「かの如来の光明智相の如く」とは(仏光明是智慧相)仏の光明は、智慧からあらわれた相であって、(光明照十方世界無有障碍)この光明が十方世界を照らして、なにものにもさまたげられず、(能除十方衆生無明黒闇)よくあらゆる人たちの無明煩悩の黒闇を除いてくださることは、(日月珠光但破空穴中闇)日月や珠の光が、ただ空穴の闇を破るようなのと同様ではない。「彼の名義の如く、実の如く、修行し相応せんと欲う」とは、かの無碍光如来の名号は、(能破衆生一切無明能満衆生一切志願)よく衆生のすべての無明を破って、よく衆生のすべての願いを満たしてくださるのである。

ところが口に名号を称え、心に念じながら、無明がなおあって、その願いの満たされないものがあるのはどういうわけかといえば、それは無得光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないからである。どういうのが無碍光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないのであろうか。それは、(是実相身是為物身)如来が実相真如をさとられた白利成就の仏であると共に、そのままが、われらを救いたもう利他成就の仏であることを知らないのである。また(三種不相応)三種の不相応がある。一つには信心が淳くない。ときにはあり、ときにはなくなるからである。二つには信心が一つでない。信が決定しないからである。三つには信心が相続しない。自力の心がまじわるからである。この三句は、互いにくみあってその意義を成立させる。信心が淳くないから決定の信がない。決定の信がないから信心が相続しない。また信心が相続しないから決定の信が得られぬ。決定の信が得られないから、信心が淳くないともいえる。これと異なるのを(如実修行相応)「実の如く修行し相応する」というのである。こういうわけで、天親菩薩は(建言我一心)《浄土論》のはじめに「我一心に」といわれたのである。

問うていう。(名為法指)名はものがらを示すことばあって、(如指指日)指が日をさし示すようなものである。もし仏の名号を称えて、その人の願いを満足させることができるというならば、日をさす指が闇を破ることができよう。もし(指日之指応能破闇)日をさす指が闇を破ることができないならば、(称仏名号便得満願)仏の名号を称えても、またどうして、よくその願いを満足させることができるであろうか。

答えていう。(諸法万差不可一概)すべてのものがらは、それぞれ差別があって一概にいうことはできない。名と法とが異ならないものもあり、名と法と異なるものもある。名と法と一つであるとは、諸仏・菩薩の名号や、般若波羅蜜や陀羅足のことば、まじないのことばなどのようなものである。(禁腫辞)腫物をいやすことばに「日出東方乍赤乍黄」(日が出て東方はたちまち赤くたちまち黄色い)などの句をいうようなのは、たとい酉(午后五時〜七時)亥(午后九時〜十一時)の時刻にこのまじないを行っても、朝日が出る出ないにかかわらず(腫得差)腫物がひく。(行帥対陣)また軍に行き対陣して、すべて歯をくいしばって「臨兵闘者皆陣前行」(兵闘に臨む者は皆陣列して前行す)と誦えるようなものである。この九字を誦えると五兵(弓・殳・矛・戈・戦)があたらない。《抱朴子》に、これが戦の要道であるというてある。また、(苦転筋者)転筋で苦しむとき、(以木瓜対火熨之則愈)木瓜を火に暖めて、そこを熨すならばなおる。また木瓜のないときには、人がただその名を呼んでもまたなおる。わたしは身にその効能を得た。こういう手近いことは、よく世間の人が知っている。まして、不可思議な仏の境界においてはなおさらである。(滅除薬塗鼓之喩)滅除薬を鼓に塗る喩えもこの一例である。この喩えは前にいったから重ねて引かない。

名が法と異なるものがあるのは指が日をさすように、ものと一つでない名である。

云何が作願する。心に常に作願して、一心に専ら、畢竟じて安楽国土に往生せんと念じて実の如く奢摩他を修行せんと欲う故なり。

「奢摩他」を翻訳して止という。止とは心を一個処に止めて悪をなさぬのである。この訳の名は、大体の意味に背かぬけれども、義をあらわすことにおいては十分でない。なぜこういうかといえば、(止心鼻端)心を鼻端に止める数息観のようなのもまた止と名づける。(不浄観止貪)不浄観は貪欲を止め、(慈悲観正瞋)慈悲観は瞋恚を止め、(因縁観止癡)因縁観は愚痴を止める。このようなものもまた止と名づける。人が行こうとして行かないのもまた止という。このように、上の語は漠然としていて、奢摩他の名を正確に示さない。(如椿柘楡柳雖皆名木若但云木安得楡柳耶)椿や拓や楡・柳のようなものを、みな木と名づけるけれども、ただ木といっただけでは、どうして楡と柳の区別ができようか。「奢摩他」を止というのには、三つの義がある。一つには、一心に専ら阿弥陀如来を念じて、かの土に生まれようと願えば、この如来の名号およびかの国土の名号がよく一切の悪を止める。二つには、かの安楽浄土は三界とは別なる清浄涅槃の世界である。もし人が、またかの国に生まれたならば、浄土の土徳として自然に身口意の悪を止める。三つには、阿弥陀如来の正覚によって持たれる力が、自然に声聞・縁覚のさとりを求める心を止める。この三種の止は、(如来如実功徳)如来のまことの功徳からおこる。こういうわけで「実の如く奢摩他を修行せんと欲う故なり」といわれたのである。

云何が観察する。智慧をもって観察するなり。正念に彼を観じて、実の如く毘婆舎那を修行せんと欲う故なり。

「毘婆舎那」を翻訳して観という。ただひろく一般的に観といっても、その義が十分ではない。なぜこれをいうかといえば、(無常苦空無我九想等)身の無常・苦・空・無我や九相などを観ずるごときも、みな観と名づける。このようなのは、上に木というても椿・柘の区別をあらわさないのと同じである。「毘婆舎那」を観というのにはまた二義がある。一つには、この世界にあって想をなして、かの浄土の三種荘厳の功徳を観ずるのである。この功徳が如実であるから、修行すればまた如実の功徳を得る。如実の功徳とは、間違いなくかの浄土に生まれることである。二つには、またかの浄土に生まれ、(即見阿弥陀仏)すなわち阿弥陀仏を見れば、初地以上七地以前のまだ平等をさとらない菩薩も、(畢竟得証平等法身)ついに平等法身のさとりを得て、八地の浄心の菩薩、それ以上の上地の菩薩とついに同じように(寂滅平等)寂滅平等の法を証る。こういうわけで「実の如く毘婆舎那を修行せんと欲う故なり」といわれたのである。

彼の観察に三種あり。何等か三種なる。一つには、彼の仏国土の荘厳功徳を観察す。二つには、阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三つには、彼の諸菩薩の荘厳功徳を観察す。

心にそのものがらを見るのを「観」という。その観ずる心が明らかであるのを「察」というのである。

云何が回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願して、回向を首と為して大悲心を成就することを得る故なり。

回向に二種の相がある。一つには往相、二つには還相である。往相というのは、自分の修めた功徳をもってすべての人に施し、願をおこして共共に、かの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれようと願うことである。還相とは、かの浄土に生まれた後に、作願・観察の自利が成就し、(方便力成就)利他の方便力を成就することを得て(回入生死稠林)迷いの世界にあらわれ、(教化一切衆生)すべての衆生を済度して仏道に向かわせることである。往相であっても、還相であっても、(為抜衆生度生死海)みな衆生の苦しみを除いて迷いを渡らせるためである。こういうわけで、「回向を首と為して大悲心を成就することを得る故なり」といわれたのである。

観察の体相とは、この章の中に二つのものがらがある。一つには器体すなわち国土の荘厳、二つには衆生体すなわち阿弥陀仏およびその往生した者の荘厳である。器世間すなわち国土の荘厳を明かす中が三重の義となる。一つには国土荘厳の体、二つには(示現自利利他)白利利他を成就していることをあらわす、三つには(入第一義諦)第一義諦すなわち法性にかなう義である。

まず国土荘厳の体とは、

云何が彼の仏国土の荘厳功徳を観察する。彼の仏国土の荘厳功徳とは不可思議力を成就せる故なり。彼の摩尼如意宝の性の如き相似相対の法なる故なり。

(不可思議力)「不可思議力」というのは、すべてかの(十七種荘厳功徳力)浄土の十七種の荘厳功徳力のはかり知ることのできないことを指すのである。(諸経統言有五種五可思議)いろいろな経の中に説かれているのに五種の不可思議がある。一つには衆生の数についての不可思議、二つには業のはたらきの不可思議、三つには龍のはたらきの不可思議、四つには禅定のはたらきの不可思議、五つには仏法力の不可思議である。この《浄土論》の中に示されてある浄土の不可思議に二種がある。一つには業力、これは(法蔵菩薩出世善根大願業力所成)因位の法蔵菩薩の無漏の善根と大願業力とによって成就せられたところである。二つには(正覚阿弥陀法王善住持力所摂)正覚を成就せられた阿弥陀如来の善くささえる力をもって摂められるところである。この不思議のはたらきは下の十七種荘厳のようで、一一の相は皆思いはかることができない。文に至ってくわしく解釈するであろう。

「彼の摩尼如意宝の性の如き相似相対」とは、かの摩尼如意宝の性質によせて、安楽仏土の利他の不可思議力の性質を示すのである。諸仏が涅槃に入られる時には、衆生利益の(慈悲方便力)慈悲方便力をもって御自身の舎利を残し、衆生に福を与えられる。衆生の福が尽きると、この舎利が変じて(摩尼如意宝珠)摩尼如意宝珠となる。この珠は多くは(大海中大龍王以為首飾)大海の中にあって、大龍王がそれを首の飾りとしている。もし転輪聖王がこの世に出られると、慈悲のはたらきをもってこの珠を手に入れて、(於閻浮提作大饒益)閻浮提すなわちこの世界において衆生のために大きな利益を与えられる。もし、衣服・飲食・灯明・音楽の道具を必要とするならば、望みに随っていろいろな物が意のままになる。(王便潔斎置珠於長竿頭)時に王が身を潔めて宝珠を長い竿の頭に置いて、願いをおこして「もしわたしが本当に転輪聖王ならば、願わくは宝珠がこういう物を降らし、もしは一里にあまねく、もしは十里でも百里でも、わが心の願いに随え」というであろう。その時、ただちに大空からいろいろの物を降らして、(皆称所須満足天下一切人願)皆その求める物をかなえ、天下のすべての人の願いを満足させる。それは(宝性力)この宝珠のはたらきがあるからである。かの安楽仏土もまたこの通りである。それは安楽国の種種の性質が成就しているからである。(相似相対)「相似相対」というのは、かの如意宝珠の力は、衣食を求める者には衣食などの物をうるおして求める者の意にかなうが、それは求めないのではない。ところが、かの浄土はそうではなくて、(性満足成就故無所乏少)浄土それ自体の性質に満足し成就しているから、欠けるところはない。かの宝珠の性質の一片を取って喩えとしたのであるから「相似相対」という。またかの如意宝珠は、ただよく衆生の衣食などの願いに満足を与えて、(無上道願)衆生の無上菩提のさとりの願いを満足させることはできない。またかの宝珠はただよく衆生の一世の身の願いを満足させるので、無量世の身の願いを満足させることはできない。こういうようないろいろのちがいがあって全同ではないから「相似」といわれたのである。すなわち似てはいるが全同ではないから相似相対というのである。

彼の仏国土の荘厳功徳成就を観察すというは十七種有り。知るべし。何等か十七なる。一つには荘厳清浄功徳成就、二つには荘厳量功徳成就、三つには荘厳性功徳成就、四つには荘厳形相功徳成就、五つには荘厳種種事功徳成就、六つには荘厳妙色功徳成就、七つには荘厳触功徳成就、八つには荘厳三種功徳成就、九つには荘厳雨功徳成就、十には荘厳光明功徳成就、十一には荘厳妙声功徳成就、十二には荘厳主功徳成就、十三には荘厳眷属功徳成就、十四には荘厳受用功徳成就、十五には荘厳無諸難功徳成就、十六には荘厳大義門功徳成就、十七には荘厳一切所求満足功徳成就なり。

まず十七種をここに掲げて、次にそれを一つ一つ解釈する。

荘厳清浄功徳成就とは、偈に「彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、あらゆる煩悩をもっている凡夫も、またかの浄土に生まれることを得れば、(三界業繋畢竟不牽)三界の業の繋縛がついに引くことはできない。(不断煩悩得涅槃分)すなわちこれは煩悩を断ちきらずに往生して涅槃のさとりを得るのである。どうして思いはかることができようか。

荘厳量功徳成就とは、偈に「究竟して虚空の如く広大にして辺際なし」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、かの浄土の人が、もし意に宮殿・楼閣を、もしは広さ一由旬、もしは百由旬・千由旬でも、(千間万間随心所成)その数が千軒・万軒であっても造ろうと思えば、心の望むところに随って成就する。人おのおのがこの通りにできる。また十方世界の衆生で往年を願う者は、過去・現在・未来にわたって生まれ、そのしばらくの間に往生する人の数も到底かぞえることができない。しかもその世界は(若虚空無辺コ相)いつも虚空のようで、せまった相がない。また、かの国の衆生はこのような無量の徳を成就している浄土にいて、その志願も広大であることは、また虚空のように限りあることがない。かの国土の無量が、よくそこに(能成衆生心行量)往生する衆生の心のはたらきの無量を成就する。どうして思いはかることができようか。

荘厳性功徳成就とは、偈に「正道の大慈悲 出世の善根より生ず」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、たとえば迦羅求羅虫はその形が小さいけれども、もし大風に当たれば、からだが大きな山のようになり、すなわち風の大小に随って自分のからだをあらわすようなものである。安楽国に生まれる衆生もまたこの通り、かの無漏の善根の世界に生まれたならば無漏の善根を成就して正定聚に入る。また、かの風がからだでないのに虫のからだとなるがようである。どうして思いはかることができようか。

荘厳形相功徳成就とは、偈に「浄光明の満足せること鏡と日月輪との如し」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、そもそも(忍辱得端正我心影響)忍辱すなわち辱しめを忍ぶという行は端正なすがたを得る。それはわが心のあらわれである。(一得生彼無瞋忍之殊)一たび浄土に生まれることができると、瞋恚と忍辱とによる果報の別というようなことがなく、(人天色像平等妙絶)生まれた人のすがたはみな平等ですぐれている。これは浄土の自体にそなわれる(浄光之力)清らかな光明のはたらきによる。(彼光非心行而為心行之事)かの光明は心のはたらきでないのに心のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳種種事功徳成就とは、偈に「諸の珍宝性を備えて妙荘厳を具足せり」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、かのいろいろの事相は、あるいは一宝・十宝(百千種宝随心称意)・百千の宝をもって造ろうと思えば、その人の思いのままになって思わぬことはない。(若欲令無脩焉化没)もし無いようにしようと思えば、たちまち下に没する。(心得自在有踰神通)心の自在を得ることが神通よりこえすぐれている。どうして思いはかることができようか。

荘厳砂色功徳成就とは、偈に「無垢の光炎熾んにして明浄に世間に曜く」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、(光曜事則映徹表裏)浄土の光が物を照らせば表裏に徹し、(其光曜心則終尽無明)その光が心を照らせば、ついに無明煩悩を尽くす。(光為仏事)光が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳触功徳成就とは、偈に「宝性功徳の草は 柔軟にして左右に旋れり 触るる者の勝楽を生ずること迦旃隣陀に過ぎたり」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、そもそも金銀のような(宝例堅強而此柔軟)宝のたぐいは堅く強いのであるが、浄土の宝は柔らかい。(触楽応著)これに触れる者は執着するはずであるのに、(増道事同愛作)これが仏道を増進させる事は愛作と同じである。どうして思いはかることができようか。愛作と名づける菩薩があった。みめかたちがうるわしくて、人がみな愛着の煩悩を起こした。経(《大乗方便経》)に「これに執着する者が、かえってよい心を起こさしめられて、あるいは天上界に生まれ、あるいは菩提心を起こした」と説かれてある。

荘厳三種功徳成就とは三種の事有り。知るべし。何等か三種なる。一つには水、二つには地、三つには虚空なり。

この三種を一緒にしていうのは同じ類だからである。なぜかというと、一つには地・水・火・風・虚空・識の六大の類である。二つには思慮分別のないもの、いわゆる地・水・火・風・虚空の類である。この中でただ三つだけをいうのは、識の一つは衆生世間に属するものであるからであり、火の一つは浄土にはないからであり、風はあるげれども風は見ることができないから、また一定の場所にとどまるものではないからである。こういうわけで六大・五類の中で、浄土にあって荘厳とすべきものを取って三つを一緒にしていうのである。

荘厳水功徳成就とは、偈に「宝華千万種にして 他流泉に弥覆せり 微風華葉を動かすに 交錯して光乱転す」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、(浄土人天非水穀身)かの浄土の人天は、水を飲み穀物を食べて生きる身でないのにどうして水を用いようか。すべては清浄に成就されていて洗濯の必要がないのに、またどうして水を用いようか。かの国には春夏秋冬の四時がなく、(常調適不煩熱)いつも適当な気候で苦しい若さがないのに、どうして水が必要であろうか。必要でないのに有るのは、有るべきわけがなくてはならぬ。経(《大経》)に「かの国の菩薩や声聞たちが、もし宝の池に入って、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝まで達し、さらに腰までと思えは腰まで、頸までと思えば頸まで増してくる。また身に潅ぎたいと思えばおのずと身に潅ぎ、反対に水を元にかえそうと思えばたちまち元どおりになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、一たびこれに浴するものは、身心ともにさわやかになって心の汚れも除き去られる。その水は澄みきって、有るか無いかわからぬくらいで、底にある宝の沙のかがやきがどれほど深くても透きとおって見える。そのような水が小波を立てながらめぐり流れて注ぎあい、遅からず、速からず、ゆるやかに流れて行く。ときにそれら無数の小波が日然の微妙な音声を出し、それによって思いのままにいなる響きでも聞こえぬことはない。あるいは仏法僧の三宝のいわれを説く声を聞く。あるいは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・四無畏・十八不共法の声、いろいろの神通智慧の声、無所作の声、不起滅の声、さらに無生忍の声から甘露灌頂の声というふうに、さまざまの妙法の声が聞かれる。そして、これらの音声は聞く者の望みに応じて量りない喜びを与える。すなわちそれらの声を聞いた者は清浄・離欲・寂滅・真実の義にかない、(三宝力無所畏不共之法)仏法僧の三宝や十力・四無畏・十八不共法の徳にかない、神通・智慧など菩薩・声聞の行ずる道にかなうのである。このように、かの浄土には三悪道の苦難はもとより、そういう名さえなく、ただ自然の楽しい音声だけがあるから、その国の名を安楽というのである」と説かれている。(水為仏事)浄土の水が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳地功徳成就とは、偈に「宮殿諸楼閣にして 十方を観ること無碍なり 雑樹に異の光色あり 宝欄遍く囲繞せり」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、かの宮殿などのいろいろなものは、あるいは一宝・十宝・百宝・無量の宝で、いずれも思いのままに意にかなって荘厳が具足する。この荘厳のものがらは、(浄明鏡)浄く明らかな鏡のように、(十方国土浄穢諸相善悪業縁一切悉現)十方世界の浄穢のいろいろなすがたや善悪業の因縁のすべてが悉く現われてくる。かの国の人天はこのことを見るから、(称揚不及之情自然成就)悪は廃し善は修するという情が自然に成就する。また大菩薩たちが(照法性等宝為冠)真如法性などを照らす宝をもって冠とし、(宝冠中皆見諸仏)この冠の中に一切諸仏を見たてまつり、また一切諸法の本性に通達するようなものである。

また、仏が《法華経》を説かれる時、眉間の光を放って東方の一万八千の国土を照らされると、みな金色のように輝いた。阿鼻(無間)地獄から上は有頂天(非想非非想処)に至るまで、すべての世界の六道の衆生が(生死所趣善悪業緑受報好醜於此悉見)生まれたり死んだりしてゆくところや、その善悪業の因縁や、受ける果報のよしあしが、この光の中に悉く見えたようである。いまもこのたぐいである。浄土の宮殿などの荘厳の中に(影為仏事)映る影が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳虚空功徳成就とは、偈に「無量の宝交絡して 羅網虚空に遍ぜり 種種の鈴響きを発して妙法音を宣吐す」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、経(大経)に「無量の宝網が仏土を覆いめぐらし、それらはみな、金糸や真珠などのいろいろの珍しい宝で飾られてある。網の四方には宝の鈴が垂れていて、それらが光まばゆく輝くさまは、実にうるわしいきわみである。そこへ自然の徳風がそよそよと吹きわたるのであるが、その風は暑からず寒からずよく調和し、また速すぎも近すぎもしない。そして、それが多くの羅網や宝樹を吹くと、はかり知られぬ微妙の法音をかなで、千万の優雅な徳香がかおる。それらをきけば、あらゆる煩悩の汚れがくまなく消え去り、その風を身に触れると皆快い楽しみが得られる」と説かれてある。この音声が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳雨功徳成就とは、偈に「華衣の荘厳を雨ふらし 無量の香普く薫ず」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、経(大経)に「風が吹くと花が散ってあまねく浄土に敷きつめられる。それらの花はそれぞれの色でよくまとまり、決して入り乱れることがない。そうして、柔らかく光沢があって芳しい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足を挙げるとすぐまた元にかえる。そして花が不用になれば、たちまち地面が開いて次第にその中へ没し、すっかり清掃されて一つの花も残らない。時がくれば、また風が吹いて花を散らす。こういうことが日に六たび繰り返される。またいろいろな宝でできた蓮華がいたる所に咲いている。一一の花には百千億の花びらがあり、その花びらには無数の色彩がある。青い色には青い光があり、白い色には白い光があり、玄・黄・朱・紫の色の先もまた同様である、その燦然とかがやくさかんなありさまは、日月よりもなお明るい。一一の花の中より三十六百千億の光を放ち、一一の光の中より三十六百千億の仏が出られる。その仏身は紫磨金色に輝いて、相好がことのほかすぐれておいでになる。これらの諸仏が、またそれぞれ百千の光明を放ち、あまねく十方の世界に出られて微妙の法を説き、無数の衆生を教化して、仏の正しい道に入らしめたもうのである」と説かれてある。(華為仏事)花が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳光明功徳成就とは、偈に「仏慧の明浄なること日の如くにて 世の痴闇冥を除く」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、(彼土光明起従如来智慧報起)浄土の光明は如来の智慧の果報から起こったものである。これに触れると無明煩悩の異聞はついに必ず除かれる。(光明非惠能為惠用)光明は智慧でないのに智慧のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

荘厳妙声功徳成就とは、偈に「梵声悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、経()に(若人但聞彼国土清浄安楽尅念願生亦得往生)「もし人があって、浄土の浄らかで安楽なることを聞いて、心から往生を願うだけの者も、また往生を得て、正定聚に入る」と説かれている。これは(国土名字為仏事)国土の名号が衆生利益のはたらきをするのである。どうして思いはかることができようか。

荘厳主功徳成就とは、偈に「正覚の阿弥陀法王 善く住持したまえり」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、正覚成就の阿弥陀仏が不可思議にましますのである。かの安楽浄土は(正覚阿弥陀善力住持)この阿弥陀仏の善き力によって住持せられている。どうして思いはかることができようか。「住」とは変わらず滅しないことをいい、「持」とは散失しないことをいう。たとえば、朽ちない薬を草木の種に塗ると、水の中に置いてもくだけず、火の中に入れても焦げず、(得因縁即生)適当な因縁を得ればすなわち芽を出すのと同じである。なぜかというと、朽ちない薬の力によるからである。もし人が一たび安楽浄土に生まれたならば、後のとき自分の意に、迷いの三界に出てきて衆生を教化しようと願えば、浄土を離れて願いのとおりに生まれることができ、三界の迷いの境界の火や水の中に出てきても、(無上菩提種子畢竟不朽)無上仏果の種はついに朽ちないのである。なぜかというと、正覚成就の阿弥陀仏の善くたもちたもう力を受けているからである。

荘厳眷属功徳成就とは、偈に「如来浄華の衆は 正覚の華よリ往生す」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、およそ、生まれ方のさまざまなこの世界には、もしは胎生、もしは卵生、もしは湿生、もしは化生と、(眷属若干苦楽万品)その種類がいろいろ分かれている。また苦楽もさまざまである。それはいろいろな迷いの業によって生まれたからである。かの安楽浄土には、すべて阿弥陀如来の浄らかな正覚の華から化生しないものはない。(同一念仏無別道故遠通夫四海之内皆為兄弟)同じく念仏によって往生するのであって別の道がないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏する者はみな兄弟となるのである。浄土の眷属は数かぎリがない。どうして思いはかることができようか。

荘厳受用功徳成就とは、偈に「仏法味を愛楽し禅三昧を食と為す」とえる故なリ。

これがどうして不思議であるかというと、(不食而資命)この世界のような食事をとらずにしかも命をたもつこれにはたもつわけがある。如来が有漏の食を用いずに命をたもたせるという本願をたてられ、これを満足せられた。(乗仏願為我命)その仏願によってわが命をたもつのである。どうして思いはかることができようか。

荘厳無諸難功徳成就とは、偈に「永く芳心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に間なし」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、経()に(身為苦器心者悩端)「身は苦しみの器であり、心は悩みを受ける本である」と説かれている。しかるに浄土の人人は身があり心があるけれども、楽しみを受けることが絶え間がない。どうして思いはかることができようか。

荘厳大義門功徳成就とは、偈に「大乗善根の界は 等しくして譏嫌の名なし 女人及び根欠と二乗の種生ぜず」と言える故なり。浄土の果報は二種の譏嫌を離れたり。知るべし。一つには体、二つには名なり。体に三種あり。一つには二乗人、二つには女人、三つには諸根不具の人なり。この三の過なき故に体の譏嫌を離ると名づく。名に亦三種あり。ただ三の体なきのみに非ず、乃至二乗と女人と諸根不具の三種の名を聞かず。故に名の譏嫌を離ると名づく。「等」とは、平等一相たるが故なり。

これがどうして不思議であるかというと、(諸天共器飯有随福之色)かの天人たちは同じ器をもっても、その人の福徳の因縁によって食物が異なる。(足指安地乃詳金礫之旨)釈迦仏が足の指で地をおさえたならば、黄金の大地となり、弟子が見れば瓦や礫の地と見える区別を明らかにされた。ところが往生を願う人は、(本則三三之品今無一二之殊)この世では九品に分かれていても、浄土に往生してからは何の差別もなくなる。また水の味の異なる(■繩一味)■水と測水とが海に入れば一味となるがようである。どうして思いはかることができようか。

荘厳一切所求満足功徳成就とは、偈に「衆生の願楽する所 一切能く満足す」と言える故なり。

これがどうして不思議であるかというと、かの国の人人は、もし他方世界の無量の仏の国に往って諸仏や菩薩たちを供養しようと思うならば、また供養に必要な品も、望みどおりにかなわぬことはないであろう。また浄土の寿命を離れて他方世界に生まれようと願うならば、その長い短かいは願いの通りにみな得られる。(未階自在之位而同自在之用)かの土の聖衆はまだ八地以上の自在の位に至らないのに、そのはたらきは自在の用と同じである。どうして思いはかることができようか。

自利利他をあらわすというのは、

略して、彼の阿弥陀仏の国土の十七種荘厳功徳成就を説いて、如来の自身利益大功徳力成就と利益他功徳成就とを示現するが故なり。

「略して」というのは、かの浄土の功徳は、量るべからざるものであって、ただ十七種だけでないことをあらわすのである。(須弥之入芥子)順弥山を芥子粒に入れ、(毛孔之納大海)大海を毛孔の中に納めるということは、山や海に不思議な力があるのではない。また芥子粒や毛孔に不思議な力があるのではない。(能神者神之耳)神通をもっておられる如来の不思議力なのである。こういうわけだから、この十七種の功徳は、往生人にいろいろと福を与えるものであるが、そのままが如来自利の徳すなわち正覚の成就によることが明らかである。よく知るべきである。

(入第一義諦)第一義諦に入るとは、

彼の無量寿仏の国土の荘厳、第一義諦妙境界相、十六句及び一句、次第に説きつ。知るべし。

「第一義諦」というのは、阿弥陀仏の願行によって成就せられた法の上でいう。この第一義諦は国土の荘厳にそなわっている義である。こういうわけであるから荘厳量功徳などの十六句を「妙境界相」とする。このいわれは入一法句の文のところで更に解釈するであろう。

「及び一句次第」というのは、国土荘厳の清浄功徳などを観察するところの総別の十七種功徳を観察する順序である。どういうふうに次第するかというと、《浄土論》の最初の偈に「無碍光如来に帰命したてまつって安楽国に生ぜんと願ず」といわれてある。この文について疑問がある。疑っていう。(生為有本衆累之元)「生」は迷いの根本となり、いろいろのわずらいの元である。(棄生願生生何可尽)この世界の生を棄ててかの浄土の往生を願うという彼と此と差別する心で生を願うならば、いつまでたっても迷いの生は尽きることがないであろう。この疑問を解釈するためにかの浄土の荘厳功徳成就を観ずるのである。かの浄土はこれ阿弥陀如来の真如法性にかなった(清浄本願無生之生)本願力によって受けるところの生死相対を越えた生であって、(三有虚妄生)三界でいう虚妄の生とは違うのである。どういうわけでこれをいうのかといえば、(法性清浄畢竟無生)そもそも真如法性というものは清浄であって、生死相対を越えた畢竟無生のものである。往生ということばを使うのは、往生を得る者の情についていうのみである。(生苟無生生何所尽)かの浄土の生が生死相対をこえた生ならば、どうしてその生を否定すべきであろうか。(尽夫生者上失無為能為之身)無生の生を否定するならば、進んでは衆生を利益する大乗無為のさとりがないことになり、(下 三空不空之痼)退いては小乗のかたよった空の見解の病に沈む。(根敗永亡号振三千)菩提心は永久にすたれてしまい、仏の説法を聞いても理解できずに、泣き叫ぶ声が三千世界をふるわせ、(無反無復於斯招耻)ふたたび大乗の機根にかえることができず、ここにおいて恥を招くのである。(体夫生理謂之浄土)その無生の生に達せしめるのを浄土というので、(浄土之宅所謂十七句)その浄土がいわゆる十七種の功徳である。

この十七種の中が総別の二となる。最初の清浄功徳は総相である。(清浄仏土過三界道)いうところの清浄の仏土は迷いの三界をこえているということである。かの三界にこえているというのにどのようなすがたがあるのかといえば、下の十六種の荘厳功徳成就の相がこれである。一つには量が究竟して虚空のごとく広大で辺際がないからである。既に量を知った。この量は何を本とするのであろうか。そこで性を観ずる。性はこれ本の義である。かの浄土は正道の大慈悲、出世の善根より生じたものである。既に出世の善根といった。この善根はどういう相を生じたのであろうか。こういうわけで次に形相を観ずる。既に形相を知れば、よろしくその形相はどういうものがらであるかを知らねばならぬ。そこで次に種種事すなわち宮殿などのものがらを観ずる。既にそれらのものがらを知れば、よろしくこのものがらにそなわる妙色(すぐれた金色)を観ずべきである。そこで次に妙色を観ずる。既にすぐれた妙色を知った。この色はどういう感触があるのか。そこで蝕を観ずる。既に身に触れる功徳を知った。まさに眼に触れるすがたを知らねばならぬ。そこで次に水と地と虚空との三つの荘厳を観ずる。既に眼に触れることを知った。まさに鼻に触れる功徳を知らねばならぬ。そこで次に衣や花の香りを観ずる。既に眼や鼻などの感触を知った。よろしくけがれを離れることを知るべきである。こういうわけで次に仏の智慧の明らかに照らすことを観ずる。既に智慧光の浄らかな力を知った。よろしくその名声がどれほど聞こえているかを知らねばならぬ。そこで次に国土の浄らかな名が遠く聞こえることを観ずる。すでに名声の功徳を知った。よろしく誰がすぐれたカとなっているかを知らねばならぬ。こういうわけで次に国土の主を観ずる。既に主があることを知った。誰がその主の眷属となっているのであろうか。こういうわけで次に眷属を観ずる。既に眷属を知った。よろしくこの眷属がどういう楽しみを受けているかを知らねばならぬ。そこで受用を観ずる。すでに受用の功徳を知ったならば、よろしくこの受用に難があるかないかを知らねばならぬ。こういうわけで次に無諸難を観ずる。既にいろいろの難がないことを知った。どういうわけで諸難がないのか。そこで次に大乗のさとりを開かせる入口すなわち大義門を観ずる。すでに大義門を知ったならば、よろしく大義門が満足するかしないかを知らねばならぬ。こういうわけで次に求めるところが満足するという功徳を観ずるのである。

また次にこの十七種の功徳は、ただ上にいうた疑いを解くばかりでない。この十七種の荘厳成就を観ずるならば、(能生真実信心必定得生彼安楽仏土)能く真実の信心をおこして、まちがいなくかの安楽浄土に往生できるのである。

問うていう。上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。下下品の人のごときは、ただ十念念仏によって往生するので、こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。(取実生即堕二執)ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。一つに、恐らくはこういう実生実滅を報ずる凡夫は往生を得ないであろう。二つに、往生しても更に生死相対の惑いを生ずるであろう。答えていう。(浄摩尼珠置之濁水水即清浄)たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力で水が浄らかになるようなものである。もし凡夫人が(無量生死之罪濁)無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、(聞彼阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号)かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、これを濁った心の中にいただくならば、(念念之中罪滅心浄即得往生)念念の中に罪が滅し清浄の徳を得て、往生が得られる。

また、この清浄なる摩尼宝珠を玄や黄の幣につつんで水の中に入れると、水がすなわちつつんだ物である(玄黄幣)幣の色と同じ玄や黄になるようなものである。かの清浄仏土には、阿弥陀如来の無上功徳の宝がある。これをいろいろの荘厳功徳という帛でつつんで、(投之於所往生者心水)往生した人の心の水の中に入れたならば、(転生見為無生智)どうして実生実滅の心を転じて無生の智慧とすることができないはずがあろうか。

また、(氷上燃火)氷の上で火を燃やすと、火の勢いが強ければ氷は解け、氷が解けると火が消えるようなものである。かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、浄土に至ればかの国は無生の道埋にかなった境界であるから、実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

衆生体というのは、この中に二重がある。一つには阿弥陀仏を観じ、二つには往生した菩薩を観ずるのである。

仏を観ずるというのは、

云何が仏の荘厳功徳成就を観ずる。仏の荘厳功徳成就を観ずとは八種あり。知るべし。

この観の義はすでに前の偈文を訳するところで示してある。

何等か八種なる。一つには荘厳座功徳成就、二つには荘厳身業功徳成就、三つには荘厳口業功徳成就、四つには荘厳心業功徳成就、五つには荘厳衆功徳成就、六つには荘厳上首功徳成就、七つには荘厳主功徳成就、八つには荘厳不虚作住持切徳成就なり。

何者か荘厳座功徳成就なる。偈に「無量大宝王たる 徴妙の浄華台あり」と言える故なり。

もし座を観じようと思うならば《観無量寿経》に依るべきである。

何者か荘厳身業功徳成就なる。偈に「相好の光一尋なり 色像群生に超えたまえり」と言える故なり。

もし仏身を観じようと思うたらば《観無量寿経》に依るべきである。

何者か荘厳口業功徳成就なる。偈に「如来の微妙の声 梵響十方に聞こゆ」と言える故なり。何者か荘厳心業功徳成就なる。偈に「地・水・火・風・虚空に同じく 分別することなし」と言える故なり。(無分別)「分別することなし」とは、分別の心なき故なり。

愚かな衆生は身口意の三業にわたって罪を造るから、三界に迷うて窮まり己むことがない。そこで諸仏・菩薩は、清浄な身口意三業を成就して、(治衆生虚誑三業)それをもって衆生のいつわりの三業を対治されるのである。

どのようにそれを用いて対治するのかというと、衆生は自分のからだについてのあやまった見解によって、(三塗身・卑賎身・醜陋身・八難身・流転身)三塗の身・卑しい身・醜い身・八難の身・流転の身などを受ける。こういうような衆生も、(阿弥陀如来相好光明身)阿弥陀如来の尊い相妙光明のおん身を見たてまつれば、上に述べたようないろいろの(身業繋縛皆得解脱)身業の撃縛をのがれることができ、(入如来家畢竟得平等身)さとりの境界に入ってついに清浄平等の身業を得る。

衆生が椁揩フゆえに仏法を謗り賢聖がたをののしり、尊長( 尊とは主君や父や師であり、長とは有徳の人および年上の人である。)を軽蔑するならば、こういう人は未来において舌を抜かれる苦しみ、聾唖に生まれる苦しみ、(言教不行苦無名聞苦)その人の言葉が用いられない苦しみ、名が聞こえぬ苦しみなどを受けるであろう。こういうようないろいろの苦しみを持つ衆生も、(阿弥陀如来至徒名号説法音声)阿弥陀如来の尊い名号の説法の声を聞いたならば、これらの繋縛を皆のがれて、さとりの境界に往って、(畢竟得平等ロ業)ついに清浄平等の口業を得る。

(以邪見放心生分別)衆生は邪な考えをもって心に分別を起こし、是非・好醜・善悪・彼此といろいろに分けへだてをする。分別をするからして、それがもととなって業を造って三界に沈み、(分別苦)いろいろ分けへだての苦しみ(取捨苦)取捨の苦しみを受け、(長寝大夜無有出期)いつまでも迷いの中にとどまって出離の時がない。こういう衆生も、(若遇阿弥陀如来平等光照若聞阿弥陀如来平等意業)もし阿弥陀加来の清浄平等の光明のお照らしに遇い、また阿弥陀如来の清浄平等の意業のおいわれを聞いたならば、これらの衆生は上に述べたようないろいろの邪な考えよりする繋縛がみな解けて、さとりの境界に入って、(畢竟得平等意業)ついに清浄平等のさとりの意業を得る。

問うていう。心はものを覚知するものである。そういう心が、どうして覚知のない地・水・火・風などと同じであり得ようか。

答えていう。(心雖知相入実相則無知)心はものを覚知するのであるけれども、実相にかなえば無分別である。(蛇性雖曲入竹筒則直)たとえば、蛇の性は曲がるものであるけれども、竹の筒に入れたならば真直ぐなようである。また人の身を針が刺したり蜂が刺したりしたならば覚知があるけれども、もし石蛭がかんだり、よく切れる刀で切るならば覚知がないようである。こういうように、(有知無知在于因縁)覚知があるとか覚知がないとかは、相手の因縁による。(若在因縁則非知非無知)もし因縁によるとすれば、心が知であるとか無知であるとかいえない。

問うていう。(心入実相可令無知)心が実相にかなえば覚知がないというならば、どうしてすべてのことを知る智慧があり得ようか。

答えていう。(凡心有知則有所不知聖心無知故無所不知)凡夫の心というものは、覚知があるといっても、また知らぬところがある。聖者の心は真如にかなった無分別であるから知らないところはない。(無知而知知即無知)無分別智のままで知る。知るままが無分別である。

問うていう。すでに無分別であるから知らぬところがないというならば、すべてのことを知るということになる。すべてのことを知るならば、どうして無分別ということができようか。

答えていう。(諸法種種相皆如幻化)諸法のいろいろな相は幻のごとく仮のものである。ところで、幻術でそこにあらりわした象や馬にもやはり良い頸や鼻や手足の区別がないではない。しかしながら智慧ある人がこれを観たならば、どうしてこれらがきまって象や馬のかたちがあると分別することがあろうか。

何者か荘厳大衆功徳成就なる。偈に「天人不動の衆 清浄の智海より生ず」と言える故なり。

何者か荘厳上首功徳成就なる。偈に「須弥山王の如く 勝妙にして過ぎたる者なし」とえる故なり。

何者か荘厳主功徳成就なる。偈に「天人丈夫の衆 恭敬し繞りて瞻仰したてまつる」と言える故なり。

何者か荘厳不虚作住持功徳成就なる。偈に「仏の本願力を観ずるに 遇うて空しく過ぐるものなし よく速やかに功徳の大宝海を 満足せしむ」と言える故なり。

(不虚作住持功徳)不虚作住持功徳成就というのは、つまりこれは(阿弥陀如来本願力)阿弥陀如来の本願力である。いま略してこの世の虚妄の業からあらわれたものがあてにならぬということを示し、それによって、かの仏力のいつわりでなく変わらないいわれをあらわそう。この世においては、(輟 養士或畳舟中)人が自分の食事を節約して多くの士を養っても、船の中で禍におうて死ぬようなこと(慶忌の故事)がある。(積金盈車盈不免餓死)金を積んで庫に満ちいても、餓死を免れなかったこと(ケ通の故事)もある。こういうようなことはこの世に多くある。(得非作得)得たのが得たのでなく、(在非守在)在るのが在ったのではない。(虚妄業作不能住持)みないつわりの業によるものであるから永くたもつことができないのである。

今いうところの不虚作住持とは、因位の法蔵菩薩の四十八願と(今日阿弥陀如来自在神力)今日果上の阿弥陀如来の自在の不思議力とにもとづくのである。(願以成カカ以就願)因位の願が果上の力を成就し、その果上の力は因位の願に就いて離れぬ。(願不徒然力不虚設)因位の願はいたずらに起こしたのではなく、果上の力はいつわりの法ではない。(力願相符畢竟不差)果上の不思議力と因位の願とが相応して、すこしもくいちがいがないから成就というのである。

即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と土地の諸の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るが故なり。

「平等法身」というのは、寂滅平等の真如をさとっている八地以上の菩薩(法性生身)である。「寂滅平等」というのは、この菩薩の証っているところの寂滅平等の法である。この寂滅平等の法をさとっているから平等法身の菩薩といい、平等法身の菩薩がさとるものであるから寂滅平等の法というのである。この菩薩は、この位に入って(報生三味)自然に得られる禅定(報生三味)を得て、(三味神力)この禅定の不思議カによって、(一念一処一時遍十方世界)同じところにおりながら、一時にひろく十方世界に向って、すべての諸仏および諸仏の会座にいる大衆をいろいろに供養する。また、よく数かぎりない世界の、(無仏法僧処)仏法僧の三宝のない処において、(種種示現種種教化)さまざまのすがたを示現し、(度脱一切衆生常作仏事)いろいろにすべての衆生を教化し済度して、つねに利他のはたらきをする。もとより、(往来想)往来する想いもなく、(供養想)諸仏を供養する想いもなく、(度脱想)衆生を済度する想いもない。こういうわけであるから、この菩薩のからだを平等法身といい、このさとるところの法を名づけて寂滅平等の法とするのである。

未証浄心の菩薩とは、初地から七地までの諸菩薩である。この菩薩もまた、よく身を現わすことは、もしは百、もしは千、もしは万、もしは憶、もしは百千万億であって、仏のましまさぬ国土において衆生済度をするが、かならず努力して禅定に入り、そこでできるのであって、努力しないのではない。(以作心故名為未得浄心)努力を用いるから未証浄心というのである。この菩薩は安楽浄土に生まれて阿弥陀仏を見たてまつりたいと願う。そして阿弥陀仏を見たてまつるとき、上位の菩薩たちとついには(身等法等)同じ平等法身を得て寂滅平等の法をさとるのである。龍樹菩薩や天親菩薩のようなかたがたが阿弥陀仏の浄土に往生を願われるのは、まさしくこのためである。

問うていう。《十地経》をうかがってみると、(菩薩進趣階級漸有無量功勲)菩薩の階級が進むのは、はかりなき修行の功勲があって、(逕多劫数然後乃得此)多劫の時を経て、しかるのち漸次にこれを進むことができるのである。それなのに、阿弥陀仏を見たてまつったときに、畢竟じて上位の菩薩たちと、その身も等しくそのさとりも等しいとは、いかなるわけであるのか。

答えていう。「畢竟じて」というのは、即等すなわちただちに等しいという意味ではない。ついにはまちがいなく等しくなるから、等しいというだけである。

問うていう。もし、ただちに等しくなるのでなかったならば、どうして菩薩と等しいという必要があろうか。ただ初地にのぼれば、漸次に智慧は進んで自然にまさに仏と等しくなるはずである。どうして上位の菩薩と等しいといわねばならぬのか。

答えていう。菩薩は七地の中でそのさとりを得れば、(上不見諸仏可求下不見衆生可度)もはや上に仏果の求むべきはなく、下に衆生の済度すべきものはないとして、(捨仏道証於実際)仏道修行の道を捨てて、そこでさとりを終わろうとする。そのときに、もし十方諸仏たちの尊いお勧めをいただかないならば、すなわち滅度して声聞・縁覚と同じことになってしまう。しかるにいま菩薩がもし安楽浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなわちこの難(七地沈空の難)がない。こういうわけであるから、ついには平等となるというべきである。

また次に、《無量寿経》の中の阿弥陀如来の願(第二十二願)に仰せられている。「もしわたしが仏になったとき、他方の国の菩薩たちが、わが国に生まれてくれば、ついにはかならず一生補処の位に至らせよう。ただし各自の希望によって、自在に衆生を化益するため、ひろい誓いを立て善根功徳を積んで、すべての者を救い、多くの仏国に出かけて菩薩行を修め、十方の諸仏を供養し、数がぎりない衆生を導いて無上のさとりを得させることも自由にできよう。かくて、つねなみの菩薩の道に超えすぐれて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができよう。もしそうでなければ決して仏とはなるまい」と。

この経文によって考えてみると、かの国の菩薩は、一地から一地に次第を経て進むのではないであろう。(十地階次)十地の次第階級というのは、これは釈迦如来が、この世界に出られて衆生を教化なされた(一応化道)一つの化導の方法である。他方の浄土は、どうして必ずしもこの通りに次第をたてるべきであろうか。五つの不思議の中で、仏法がもっとも不可思議である。もし、浄土の菩薩はかならず一地から一地に進んで、(超越之理)次第階級を超えるという道理がないというならば、その人は、またよく浄土の不思議をくわしく知らぬのである。

たとえば好堅という樹があって、この樹は地中に百年間生きる。そこで地上に出たならば一日に、長が高くなること百丈なるがようである。日日にこの通りである。百才のときの樹の長を計ったならば、どうしてこの世の松と比べられようか。松の生長するのをみるに、一日に一寸を越えない。かの好堅のことを聞いて、どうして一日に百丈伸びるということを疑わずにおられよう。ある人は、釈迦如来が(証羅漢於一聴)一ぺんの説法によって羅漢のさとりを開かせ、(制無生於終朝)朝のあいだに無生法忍に至らせたということを聞いて、(接誘之言非称美之説)これはただ誘引のおことばであって、実際の話でないと思う。そういう人は、この《浄土論》の超越のことを聞いても、また、まさに信じないであろう。(非常之言不入常人之耳)そもそもつねなみを離れたことばは常人には理解できず、(謂之不然亦其宜也)そういうことはないと思う。それも、やむを得ないことである。

略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳次第に成就したまえることを示現すと知るべし。

これはどういう次第になっているかというと、前の十七種は浄土の荘厳功徳の成就である。そこで、浄土のすがたを知ったならば、浄土におられる主、すなわち仏を知らねばならぬ。こういうわけで次に阿弥陀如来の荘厳功徳を観ずるのである。かの仏は、いかように荘厳を成就されて、何の処に坐していられるか。そこで、まず座を観じなければならぬ。すでに座を知ったならば、よろしくその座の上にすわっていられる仏を知らねばならぬ。それゆえ、次に仏の身業の荘厳すなわちおすがたを観ずる。すでにおすがたを知ったならば、どのような名であるかを知らねばならぬ。そこで、次に口業の荘厳すなわちお声のはたらきを観ずる。すでに名号のあらゆるところに聞こえることを知ったから、よろしくそういう名号を得られた理由を知らねばならぬ。それゆえ、仏の心業の荘厳すなわちお心のはたらきを観ずるのである。そこで阿弥陀如来の身口意の三業が、そろって成就されているのを知ったから、まさに浄土においては、聖衆を化益する大師となられるが、その教化を受ける人はだれであるかを知らねばならぬ。こういうわけであるから、次に大衆の功徳を観ずる。すでに大衆に量りなき徳がそなわっていることを知ったから、その上首はだれであるかを知らねばならぬ。それゆえ次に上首を観ずる。上首は阿弥陀如来である。そこで上首を知ったが、それだけでは大衆の中の長幼の序と混同せられるおそれがある。こういうわけで、次に仏を主とすることを観ずる。すでにこの主を知ったなら、この主たる仏にはどういうすぐれた徳がましますかを知らねばならぬ。そこで、次に不虚作住持功徳の荘厳を観ずる。八徳がこういう次第でできているのである。菩薩を観ずるというのは、

云何が菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察すとは、彼の菩薩を観ずるに四種の正修行功徳成就ありと知るべし。

(真如是諸法正体)そもそも真如はすべてのものの本体である。(体如而行則是不行)この一如に体達して修行すれば、行して行相を見ないのである。(不行而行名如実修行)行相を見ないで行ずるのを、如実修行すなわち真如にかなった修行というのである。(体唯一如而養分為四)体は唯一つの真如であって義の上で四つに分ける。こういうわけで四行を一つにまとめて、これを正修行と名づけるのである。

何者をか四とする。一つには、一仏土に於いて身動揺せずして、而も十方に遍じて種種に応化し、実の如く修行して、常に仏事を作す。偈に、

「安楽国にて清浄に 常に無垢輪を転ず

 化仏菩薩の日は 項弥の住持するが如し」

と、言える故なり。諸の衆生の淤泥華を開くが故なり。

八地以上の菩薩は、いつも禅定にあって、この禅定の力によって、身は本処を動かないであまねく十方世界に至り、諸仏を供養し、衆生を済度する。「無垢輪」とは仏の境界の功徳である。仏の位の功徳は、(習気煩悩)煩悩やその余残の気もない。仏は菩薩たちのために、常にこの浄らかな説法をしていられる。菩薩たちもまた如来の説法を受けて、すべての人人を導いてしばらくも休むときがない。そこで、「常に転ずる」というのである。(法身如日)浄土の法身すなわち本体は日のようであり、(応化身光遍諸世界)これより放つ応化身は光のようであって、すべての世界にゆきわたるのである。「日」といったのでは不動ということを示すに十分でないから、また「須弥の住持するが如し」といったのである。(淤泥華)「淤泥華」とは、経(維摩経)に(高原陸地不生蓮華卑湿淤泥乃生蓮華)「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が(煩悩泥)煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の(正覚華)正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。(諒夫紹隆三宝常使不絶)まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。

二つには、彼の応化身は一切の時に前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ちて、悉く能く遍く十方世界に至りて衆生を教化す。種種に方便し修行し所作して、一切衆生の苦を滅除するが故なり。偈に、

「無垢荘厳の光は 一念及び一時に

 普く諸仏の会を照らし 諸の群生を利益す」

と言える故なり。

上に、浄土の法身を動かさずに至るといったが、あるいは、至るのに後先があるとも考えられる。こういうわけで、(一念一時無前後)また一念一時で前後することがないといわれたのである。

三つには、彼れ一切世界に於いて余すなく諸仏の会を照らし、大衆余すなく広大無量に供養し恭敬して、諸仏如来の功徳を讃嘆す。偈に、

「天の楽と花と衣と 妙香等を雨ふらして供養し

 諸仏の功徳を讃ずるに 分別の心あることなし」

と言える故なり。

「余すなく」というのは、あまねく一切の世界、一切の諸仏の会座にゆきわたって、一つの世界、一仏の会座にも至らぬことがないということである。僧肇が(法身無像而殊形並応至韻)「さとりの身は一定のかたちにとらわれないで、あらゆる形を現わしてすべてに応ずる。(無言而玄籍弥布)さとりのことばは、定まったかたちがなくて、いろいろなことばで説法し、そのことばはあまねくゆきわたる(冥権無謀而動与事会)。また、はかることのできぬさとりの心のはたらきは、一定にとらわれないで、動いてすべてにかなう」というのは、この意味である。

四つには、彼れ十方一切世界の三宝なき処に於いて、仏法僧宝の功徳の大海を住持し荘厳して、遍く示して如実の修行を解らしむ。偈に、

「何等の世界にも 仏法功徳宝なからんには

 我願わくは皆往生して 仏法を示すこと仏の如くせん」

と言える故なり。

上の三つの徳は、あまねく至るといっても、みな仏のいられる世界である。もしこの徳をいわなければ、法身もあまねく至らぬことになり、菩薩の善も本当に善でないことになる。以上で観行体相章が終わった。

以下は解義分の中の第四章である。名づけて浄入願心とする。浄入願心というのは、

又向きに説ける観察の荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就と、此の三種の成就は願心をもって荘厳せりと知るべし。

「知るべし」というのは、(此三種荘厳成就由本四十八願等清浄願心之所荘厳)この三種の荘厳が成就されたのは、因位の四十八願などの浄らかな願心によって成就されたものである。そこで、(因浄故果浄)因位の願心が清浄であるから、成就された果徳も清浄である。(非無因他因有)因位の願心によって成就されたのであるから無因ではない。法蔵菩薩自身の願心によったのであるから、他因によったのではないと知るべきである、という意味である。

(略説入一法句故)略して説かば一法句に入る故なり。

さきに述べた浄土の荘厳十七種功徳と、阿弥陀如来の荘厳八種功徳と、往生した菩薩の荘厳四種功徳とを広とする。それらが一法句におさまるのを略とする。(示現広略相入)なにゆえに広略が互いにおさまることを説くのかというならば、諸仏や菩薩に二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身をよりどころとして方便法身を起こし、方便法身によって法性法身の徳を顕わし出すのである。(二法身異而不可分一而不可同)この二つの法身は、異なってはいるが離すわけにはいかない。一つであってしかもその義は同じでない。こういうわけてあるから(広略相入統以法名)広と略と互いにおさめ、この二つを統べて法という名であらわすのである。菩薩(五念門を修める人)が、もしこの広と略とが互いにおさまるということに体達しなかったならば、自利利他のはたらきをすることはできない。

一法句とは謂わく清浄句なり。清浄句とは謂わく真実の智慧無為法身の故なり。

(三句展転相入)この三句は順次に互におさめる。どういういわれによって、いま一法句とするのかといえば、清浄功徳の義をもっていうのである。どういういわれで、清浄功徳というのかといえば、(真実智慧無為法身)真実の智慧無為法身なるがゆえである。「真実の智慧」というのは、(実相)実相をさとった智慧である。実相は一定の相がないから、(真智無智)これをさとった智慧は無分別の智慧である。(無為法身)「無為法身」というのは、法性身である。(法性寂減)法性は空寂であるから、(法身無相)法身は一定の相がない。(無為法身)一定の相がないから、よくあらゆる相となるのである。こういうわけであるから、(相好荘厳身即法身)如来の相好および浄土の荘厳がそのまま法身である。無分別の智慧であるから、よくまたいかなることも知らぬことはないのである。そこで、(一切種智)すべてのことを知りつくす智慧、それがすなわち真実の智慧である。(真実)真実ということばを智慧に名づけることは、(智恵非作非非作)この智慧は作用するのでもなく、作用しないのでもないことを明かすのである。(無為而標法身)無為ということばをもって法身をあらわすのは、(法身非色非非色)法身は色相があるのでもなく、色相がないのでもないことを明かすのである。(非干非者豈非非之能是乎)非を否定すれば、どうして非を否定したものが是といわれようか。思うに、(無非之日是)非のないのをこれを是という。(自足無待復非是)みずから是であって対することのないのは、また是ではない。(非是非非百非之所不喩)是でもない、非でもない、百非もたとえられぬところである。こういうわけで清浄句といったのである。「清浄句」とは真実の智慧無為法身である。

此の清浄に二種ありと知るべし。

上の転入の句の中について、(通一法入清浄通清浄入法身)一法句の意義を通釈して清浄句におさめ、清浄句のことを通釈して法身におさめるといった。いまは、その清浄功徳を別けて二種を出そうとされるから、それで「知るべし」といわれたのである。

何等か二種なる。一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向きに説ける十七種の荘厳仏土功徳成就、是れを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向きに説ける如き八種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就、是れを衆生世間清浄と名づく。是くの如く一法句に二種の清浄を摂すと知るべし。

さて(衆生為別報之体)衆生は各別の業によって報われた主体であり、(国土為共報之用)住むところの国土はみな共通の業によって報われて用いられるものである。(体用不一)その衆生と国土とは、一つでないから「知るべし」というのである。しかしながら、(諸法心成無余境界)浄土のあらゆるものは、みな法蔵菩薩の願心より成就されたものであって、そのほかのものではない。(衆生及器復不得異不得一)衆生とその器である国土とは、異でもなく一でもない。(不一則義分不異同清浄)一でないから衆生と国土とに義を分かつ。異でないから同じく「清浄」というのである。「器」とは用いるものである。すなわち、浄土はかの清浄なる衆生が用いるところであるから、名づけて器とするのである。浄らかな食物に不浄の器物を用いたならば、器物が不浄であるから食物もまた不浄となる。不浄の食物に浄らかな器物を用いたならば、食物が不浄であるから器物もまた不浄になるようなものである。かならず器物と食物とが共に浄らかであって、そこで清浄ということができる。こういうわけであるから、いま、一つの清浄という名の中に衆生と国土との二種をおさめるのである。

問うていう。いま衆生世間清浄といったのは、阿弥陀仏と浄土の菩薩とである。かの浄土の人天も清浄衆の数の中に入るのかどうか。

答えていう。清浄と名づけることはできるが、実の清浄ではない。たとえば出家の聖者は、煩悩の賊を殺しているから名づけて比丘とするのであるが、まだ煩悩の賊を除ききらぬ凡夫の出家で持戒の者も破戒の者も、また比丘と名づけるようなものである。また灌頂王子すなわち転輪王の王子は、初めて生まれたときに三十二相をそなえて七宝を所有している。そこで、まだ転輪王のする仕事はできぬけれども、また転輪王と名づけるようなものである。それは、あとにはかならず転輪王となるからである。かの浄土の人・天もまたこの通りであって、みな大乗の正定聚に入って、ついには清浄法身を得るのであるから、清浄衆と名づけることができるのである。

善巧摂化というのは、

是くの如く菩薩は奢摩他・毘婆舎那にて広略修行して柔 心を成就す。

「柔 心」というのは、(広略止観相順修行成不二心)三厳の広を観じ、一法句の略を観ずるについて、止と親とが相応して、所観の境徳すなわち実相と、能観の心とが、境智不二となったのをいうのである。(以水取影清静相資而成就)たとえば、水をもってものの影をうつす場合に、水の清らかさと静けさとが、あいよって成就するようなものである。

(如実知広略諸法)実の如くに広略の諸法を知る。

「実の如くに知る」というのは、実相にかなって知ることである。広げていう三厳二十九種も、略していう一法句も、すべて実相でないものはない。

是くの如くにして巧方便回向を成就す。

「是くの如く」というのは、前の三厳の広も、後に出した一法句の略も、みな実相である。その所観の実相と能観の心とが不二になることである。(実相)実相に達するから、三界の衆生の実相にそむくすがたを知る。衆生の実相にそむくすがたを知るものだから、これを救おうという(真実慈悲)真実の慈悲をおこす。(真実法身)真実の法身すなわち実相を知るものだから、菩提を求めようとする(真実帰依)真実の帰依をおこすのである。その(慈悲帰依巧方便)慈悲と帰依と巧方便とは下に示されてある。

何者か菩薩の巧方便回向なる。菩薩の巧方便回向とは、謂わく(さきに)説ける礼拝等の五種の修行をして集むる所の一切の功徳善根をもって、自身の住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うが故なり。一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜんと作願するなり。是れを菩薩の巧方便向向成就と名づく。

王舎城において説かれた《無量寿経》のうえを考えてみると、往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、いずれもみな、無上菩提心すなわち他力の信心をおこさないものはない。この無上の大信心は(願作仏心)自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま(度衆生心)衆生を済度しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。こういうわけであるから、かの安楽浄土の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち信心をおこさねばならぬ。もし人が、この信心をおこさずに、ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、(為楽願主)楽しみを貪るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。そこで、(不求自身住持之楽)「自身の住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うが故なり」といわれたのである。「住持の楽」とは、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によってたもたれて、楽しみを受けることが絶えまがないということである。

およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果に向かわせることである。

「巧方便」というのは、菩薩が自分の(智慧火)智慧の火をもって一切衆生の(煩悩草木)煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば(火■)木の火ばしをもって、草木を摘んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便と名づける。

いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それは(彼仏国即畢竟成仏道路無上方便)かの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

障菩提門というのは、

菩薩は是くの如く善く知り回向成就すれば、即ち能く三種の菩提門相違の法を遠離すべし。何等か三種なる。一つには智慧門に依りて自楽を求めず、我が心が自身に貪着するを遠離する故なり。

(知進守退日智)菩提の道に進むことを知って、二乗の自利に堕ちることから身を守るのを「智」といい、(知空無我日恵)諸法は空無我なりとさとるのを「慧」という。(依智故不求自楽)その智によるから自分の楽しみを求めず、(依恵故遠離我心貧著自身)慧によるから我が心が自分に執着することを速く離れるのである。

ニつには、慈悲門に依りて一切衆生の苦を抜き、無安衆生心を遠離する故なり。

苦しみを除くのを「慈」といい、楽しみを与えるのを「悲」という。(依慈故抜一切衆生苦)慈によるから一切衆生の苦しみを除き、(依悲故遠離無安衆生心)悲によるから人を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。

三つには、方便門に依りて一切衆生を憐愍する心をもって、白身を供養恭敬する心を遠離する故なり。

正直にして偏らないのを「方」といい、己を先とせぬのを「便」というのである。(依正直故生憐愍一切衆生心)この偏らない正直によるから、すべての衆生をあわれむ心を生ずる。(依外己故遠離供養恭敬自身心)己を先とせぬから自分を利養し愛重する心を遠く離れるのである。

是れを、三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。

順菩提門というのは、

菩薩は是くの如き三種の善提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足するを得る故なり。何等か三種なる。一つには無染清浄心、白身の為に諸楽を求めざるを以ての故なり。

菩提は、染れのない浄らかな境地である。もし自分のために楽しみを求めるならば、それは菩提にそむくであろう。こういうわけであるから、染れなき清浄心は書提に順ずるのである。

二つには安清浄心、一切衆生の苦を抜くを以ての故なり。

(菩提是安穏一切衆生清浄処)菩提は一切衆生を安穏にする清浄な境地である。もし心を用いて一切衆生を救うて生死の苦しみを離れさせなかったならば、すなわち菩提にそむくであろう。こういうわけであるから、一切衆生の苦しみを除くのは菩提に順ずるのである。

三つには楽清浄心、一切衆生をして大菩提を得しむるを以ての故なり。衆生を摂取して彼の国土に生ぜしむるを以ての故なり。

(菩提是畢竟常楽処)菩提は、この上なき常住安楽の境地である。もしすべての衆生に最上の常住安楽を得させなかったならば、菩提にそむくであろう。この最上の常住安楽は何によって得るのかといえば、大乗に至るの門によるのである。その大乗に至るの門とは、すなわちかの安楽の仏の世界がこれである。こういうわけで、また「衆生を摂取して彼の国土に生ぜしむるを以ての故なり」といわれたのである。

是れを三種の随順菩提門の法満足すと名づくと知るべし。

名義摂対というのは、

向きに説ける智慧と慈悲と方便との三種の門は般若を摂取す。般若は方便を摂取すと知るべし。

「般若」とは平等の一如をさとる慧の名であり、「方便」とは差別の事相に通ずる智をいうのである。平等一如に達すれば、心のはたらきが寂滅である。差別の事相に通ずれば、くわしくあらゆる機類をよく知る。あらゆる機類を知る智は、よろずの機に応じつつ、しかも無分別平等である。一如をさとった静かな慧は、また無分別平等であって、(備省衆機)しかもくわしくあらゆる機をよく見る。そうであるから、智慧と方便とはたがいに縁って動であり、たがいに縁って静である。(動不失静智恵之功)あらゆる機類を救う活動をしながら、しかも一如を見る静けさを失わぬのは智慧の徳であり、(静不廃動方便之力)一如を見る静かな智慧であって、しかも衆生を済度する活動をやめないのは方便の力である。そこで、(智恵慈悲方便摂取般若)智慧と慈悲と方便とは般若を摂め、(般若摂取方便)般若は方便を摂める。「知るべし」といわれたのは、(智恵方便是菩薩父母)智慧と方便とは菩薩の父母であって、もし智慧と方便とに依らなかったならば、菩薩の修行の法が成就できないことを知るべきであるということである。なぜかというと、(若無智恵為衆生時則堕顛倒)もし智慧がなくて衆生のために動くときは、それは迷いにおちてしまう。(若無方便観法性時則証実際)もし衆生済度の方便がなくして、偏ってただ真如法性を観ずるのみならば、それは二乗と異なることのないさとりを証する。こういうわけであるから、「知るべし」というのである。

向きに説ける「我が心自身に貪着するを遠離する」と「無安衆生心を遠離する」と「自身を供養恭敬する心を遠離する」と、此の三種の法は菩提を障うる心を遠離するなり。知るべし。

ものにはそれぞれさまたげる相がある。風はよく静かになることをさまたげ、土はよく水の流れをさまたげ、うるおいは火のもえるのをさまたげ、五悪・十悪は人・天の果を受けることをさまたげ、無常・苦・無我・不浄を常・楽・我・浄とあやまる四顧倒の考え方は、声聞の果をさまたげるようなものである。ここに挙げた三種の心を離れなかったならば、これは菩提をさまたげる心である。「知るべし」というのは、菩提のさまたげのないことを得ようと思うならば、この三つの障碍を離れねばならぬということである。

向きに説ける無染清浄心と安清浄心と楽清浄心と、此の三種の心を略して一処にして妙楽勝真心を成就するなり。知るべし。

(楽有三種)楽に三つの種類がある。一つには外楽、これは眼・耳・鼻・舌・身の五識によっておこる楽しみである。二つには内楽、これは初禅天・二禅天・三禅天の禅定の意識でおこす楽しみである。(法楽楽)三つには法楽楽すなわち仏法の楽しみ、これは智慧によって生ずる楽しみである。(智恵所生楽従愛楽仏功徳起)この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽するよりおこるのである。これは自分に執着する心を離れ、人を安らかにすることのない心を離れ、自分を利養する心を離れる、この三種の心が清浄に進んで一つの(妙楽勝真心)妙楽勝真心となる。「妙」ということばは、好いという意味である。この楽しみは阿弥陀仏の徳を縁じておこるからである。「勝」ということばは、迷いの三界の楽しみに異なっていることである。「真」ということばは、虚偽でなく法性に順ずることをいうのである。

願事成就というのは、

是くの如く菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもって、能く清浄の仏国土に生ずと知るべし。

「知るべし」というのは、この四種の清浄な功徳が、よく弥陀の浄土に往生させるのであって、他の因縁によって往生するのではないことを知るべきであるというのである。

是れを菩薩摩訶薩五種の法門に随順して、所作意に随って自在に成就すと名づく。向きに説く所の如き身業・口業・意業・智業・方便智業は、法門に随順するが故なり。

(随意自在)「意に随って自在」とは、(五種功徳力)この五念門の功徳力は(能生清浄仏土出没自在)よくかの浄土に往生させて、自利利他を自在ならしめることである。「身業」というのは礼拝である。「口業」というのは讃嘆である。「意業」というのは作願である。「智業」というのは観察である。「方便智業」というのは回向である。この(五種業和合)五種の業がととのえば、(往生浄土法門)往生浄土の法門にかなって自利利他の業因が成就するというのである。

利行満足というのは、

復五種の門あって漸次に五種の功徳を成就すと知るべし。何者か五門なる。一つには近門、二つには大会衆門、三つには宅門、四つには屋門、五つには薗外遊戯地門なり。

(五種示現入出次第相)この五種は、入の自利と出の利他との次第の相を現わしたのである。自利の入相の中、初めに浄土に生まれるのは、これは近相である。すなわち大乗の正定聚に入り、無上菩提に近づくのである。浄土に入れば、そこで(入如来大会衆数)如来の大会衆の数に入る。大会衆の数に入れば、(修行安心之宅)まさに静かに禅定を修する宅に至る。その宅に入り終われば、まさに種種の観察を修行する屋寓に至る。その自利の修行が成就し終われば、衆生を教化する地位すなわち教化地に至る。(教化地即是菩産自娯楽地)教化地というのは、すなわち菩薩がみずから楽しむ地位である。こういうわけで、浄土から出るのを薗林遊戯地門という。

此の五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五の門は出の功徳を成就するなり。

この入出の功徳とは何であるかというと、《浄土論》に解釈していわれる。

入の第一門とは、阿弥陀仏を礼拝したてまつって、彼の国に生ぜんが為にするを以ての故に、安楽世界に生ずることを得。是れを入の第一門と名づく。

阿弥陀仏を礼拝して仏の国に往生を願うのが、これが初めの功徳相である。

入の第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆したてまつって、(随順名義称如来名)名義に随順して如来のみ名を称し、如来の光明智相に依って修行するを以ての故に、大会衆の数に入ることを得。是れを入の第二門と名づく。

如来の名号のいわれによって讃嘆するのが、これが第二の功徳相である。

入の第三門とは、一心に専念し作願して彼の国に生まれて(奢摩他寂静三昧)奢摩他寂静三昧の行を修するを以ての故に、蓮華蔵世界に入ることを得。是れを入の第三門と名づく。

寂静三昧の行を修めるために一心に浄土に生まれようと願う、これが第三の功徳相である。

入の第四門とは、彼の妙荘厳を専念し観察して毘婆舎那を修するを以ての故に、彼の処に到りて種種の法味楽を受用することを得。是れを入の第四門と名づく。

(種種法味楽)「種種の法味楽」というのは、毘婆舎那観の中に、(観仏国土清浄味)浄土の法性にかなった清浄なる徳を観ずる法味、(摂受衆生大乗味)衆生を摂めて大乗のさとりを聞かせる徳を観ずる法味、いつまでも変わらずに衆生に利益を与える徳を観ずる法味、(類事起行願取仏土味)衆生の類に応じてこれを化益し、仏土をそこにあらわして衆生を済度する徳を観ずる法味がある。このように(無量荘厳仏道味)いろいろな浄土の楽しみがあるから、種種というのである。これが第四の功徳相である。

出の第五門とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示し生死の園煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向を以ての故に。是れを出の第五門と名づく。

「応化身を示し」というのは、《法華経》の普門品に説く観音の示現のたぐいである。(遊戯有二義)「遊戯」というのに二つのいわれがある。一つには自在という義である。浄土の菩薩が衆生を済度することは、たとえば獅子が鹿を捕るように、その所作が何のむずかしいところもないことが遊戯するようである。二つには(度無所度義)済度しながら済度する想いのないことである。浄土の菩薩が衆生を観られる場合、ついに衆生という実体があるとは見ない。数がぎりない衆生を済度しながら、実に一人の衆生も滅度を得させたという想いがない。衆生を済度することが遊戯するようである。「本願力」というのは、上位の菩薩がそのさとりの中において、つねに禅定にあって、いろいろの身、いろいろの神通、いろいろの説法を現わす。これはみな、この土における信心の中にそなわる利他回向の徳からするのである。たとえば阿修羅の琴は弾ずる者がなくても、自然に音曲の出るようなものである。これを第五の教化地の功徳相と名づける。

菩薩は入の四種の門にて自利の行成就すと知るべし。

「成就」とは、菩薩の自利が満足したことをいう。「知るべし」とは、自利を満足することによってよく利他するのであって、自利を満足せずに利他するのではないと知るべきである、という意味である。

菩薩は出の第五門にて回向利益他の行成就すと知るべし。

「成就」とは、(以回向因証教化地果)第五門の回向の因によって他の衆生を救うという果を得ることである。(若因若果無有一事不能利他)因も果も一つとして利他でないことはない。「知るべし」とは、利他を満足することによってよく自利するのであって、利他を満足せずに自利するのではないと知るべきである、という意味である。

菩薩は是くの如く五念門の行を修して自利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就するを得る故なり。

仏の得られたさとりを阿耨多羅三藐三菩提という。このさとりを得るから仏というのである。いま「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得る」というのは、菩薩が浄土においては(得早作仏)速やかに仏のさとりを得ることである。「阿」は無と訳し、「耨多羅は上と訳し、「三藐」は正と訳し、「三」は遍と訳し、「菩提」は道と訳する。総じてこれを訳せば「無上正遍道」という。「無上」とは、仏のさとりが真如法性をきわめつくして、これ以上のかたがないことを意味する。なせそういわれるかというと、「正」だからである。「正」というのはさとりの智慧である。一切諸法のありのままを知るから正智という。(法性無相故聖智無知)諸法の本性は一定の相がないから、これをさとる智悪も、また分別を離れた智慧である。「遍」の意味に二種があるし一つには、さとりの心があまねくすべての法を知りつくすことであり、二つには、仏身があまねくすべての世界に満ちわたることである。(若身苦心無下遍)仏は身も心もゆきわたらぬところがない。「道」というのは無碍道である。経(華厳経)に「十方の無碍人たる仏は、一道によって迷いを出られた」と説かれている。一道とは一無碍道のことである。無碍とは、(知生死即是涅槃)迷いとさとりが本来不二であるとさとることである。(入不二法門無碍相也)このように諸法不二の相にさとり入ることが無碍の相である。

問うていう。どういうわけで「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上仏果)を成就することを得る」といわれたのか。

答えていう。《浄土論》に「菩薩が五門の行を修めて自利利他を成就するからである」といわれてある。ところで、衆生が五念門の徳を成就して(然覈求其本阿弥陀如来為増上縁)速やかに無上の仏果を得る本をあきらに究めてみると、阿弥陀如来を最上の力とするのである。

(他利与利他談有左右)他利と利他とは、そのいい表わしかたに相違がある。(仏而言宜言利他)仏の方からいうならば、仏が他の衆生を利益するのであるから、よろしく利他というべきであり、(衆生而言宜言他利)衆生の方からいうならば、衆生が他である仏に利益せられるのであるから、よろしく他利というべきである。(今将談仏力是故以利他言之)いまは仏力を語ろうとするのであるから「利他」といわれたのである。この意味をよく知るべきである。

(凡是生彼浄土及彼菩薩人天所起諸行者縁阿弥陀如来本願力故)およそ、衆生が、かの浄土に生まれることも、浄土に生まれてからさまざまのはたらきを現わすことも、みな阿弥陀如来の本願力によるのである。なぜならば、(若非仏力四十八願便是徒設)もし仏力によるのでなかったなら、四十八願はいたずらに設けられたことになるからである。(的取三願用証義意)今これに相当する三願を引いてそのわけを証明しよう。

第十八願に「もし、わたしが仏になったとき、十方の衆生が心からわたしを信じ喜び、往生をねがい、十念念仏して、往生することができぬなら、決して仏となるまい。ただ五逆の罪を造り、正法を謗る者を除く」と誓われている。(縁仏力故十念念仏便得往生)この仏願力によるから、十念念仏して往生を得る。往生を得るから三界にさまよわない。さまよわないから速やかに仏となることができる。これが一つの証拠である。

また、第十一願に「もし、わたしが仏になったとき、国の中の人たちが正定聚に住して必ず滅度のさとりに至ることができないならば、決して仏となるまい」と誓われている。(縁仏力故住正定聚)この仏願力によるから正定衆に住する。正定聚に住するから、かならず滅度のさとりを得るのであって、(無諸回伏之難)ふたたび退転することがない。それゆえ、速やかに仏となることができる。これが二つの証拠である。

また、第二十二願に「もし、わたしが仏になったとき、他方の国の菩薩たちが、わが国に生まれてくれば、ついにはかならず一生補処の位に至らせよう。ただし、各自の希望によって、自在に衆生を化益するために、ひろい誓いを立て善根功徳を積んで、すべての者を救い、多くの仏国に出かけて菩薩行を修め、諸仏を供養し、数がぎりない衆生を導いて無上のさとりを得させることも自由にできよう。かくて、つねなみの菩薩の道にこえすぐれて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができよう。もし、そうでなければ決して仏となるまい」と誓われている。(縁仏力故超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳)この仏願力によるから、つねなみにこえて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができる。つねなみにこえて諸地の行があらわれるから速やかに仏となることができる。これが三つの証拠である。

(推他力為増上縁)こういうわけで他力の意味を考えてみるに、如来の願力を最上の力とするのである。どうして、そうでないということができようか。

(引例示他自力他力相)さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が三塗におちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつからよく禅定を修め、禅定を修めるから神通力を得、神通力を得るからよくあらゆる世界へ自由自在に行くことができる。こういうことを自力という。また、(劣夫跨驢)劣った者が驢馬に乗っても空へのぼる力はないが、転輪王の行幸に従えば、(乗虚空遊四天下無所障碍)虚空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。こういうことを他力というのである。

尊いみ法に遇うたことである。後の代の行者よ、(聞他力可乗当生信心而自局分)よろしく他力に乗託すべきことを聞いて、信心を生ぜよ、決して自力にこだわってはならぬ。

無量寿修多羅優婆提舎願主偈、略して義を解し竟わんぬ。

経の始めに「如是」といわれてあるのは、(彰信為能入)仏法に入るのには信を肝要とすることをあらわす。経の終りに「奉行」というのは、仏説のとおりに信受することのおわったことをあらわす。《浄土論》の初めに「帰命礼拝」があるのは、そのたっとぶところが根拠のあることを明かす。終りに「義を解し竟わんぬ」というのは、詮わすところの義理が終わったことを示す。述べると作るとは、菩薩と仏とその人が異なる。そこで始めて終りが、こういう例になっているのである。

 無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下(往生論註)